岩切正一郎教授はボードレールを中心とするフランス近代詩の専門家であり(主著:『さなぎとイマーゴ:ボードレールの詩学』、2006年)、また数冊の詩集を出版されている文芸創作者でもある。しかし近年は、フランス語戯曲の翻訳者として目を見張る活躍をされている。湯浅芳子翻訳賞を授賞したジャン・アヌイ『ひばり』、アルベール・カミュ『カリギュラ』にはじまり(2007年)、ベケット『ゴドーを待ちながら』、ラシーヌ『フェードル』、ジロドゥ『トロイ戦争は起こらない』と、さまざまなフランス演劇の古典的レパートリーが先生の新訳により全国の大劇場に掛けられている。「岩切翻訳」が、これほどもとめられている理由は何なのか。その秘密を探るために今回の講演会は企画された。以下講演内容、質疑応答の次第を簡単に要約する。
講演は、「これまでの仕事」「『フェードル』翻訳に関わってみて」「現代における古典の上演」という三つのテーマに分かれており、「これまでの仕事」で岩切教授はまず、ご自身の経歴・仕事を整理しつつ、戯曲翻訳をするようになった経緯をお話された。発端は、東大在学時の友人で作曲家の笹松泰洋氏に、ストラヴィンスキー作曲の音楽劇『兵士の物語』の原作台本翻訳を依頼されたことだった。朗読、演劇、バレーを融合させたこの歴史的音楽劇での翻訳は、「戯曲翻訳」というよりも「言葉と音楽」をつなぐ創造行為に自身も参加したというような印象で、詩人としての活動の延長にもあったという。それからやはり笹松氏の仲介で蜷川幸雄氏から『ひばり』『カリギュラ』の翻訳依頼が来て、以後、本格的な戯曲翻訳者として認知され現在に至っているとのことである。
続いて、最新の仕事である『フェードル』(栗山民也演出、2017年4月シアターコクーン)翻訳を通して、自身の戯曲翻訳のスタンス、美学を解説された。岩切教授にとっては、翻訳者とは「永遠的なものと、時代に左右されるものの間に挟まれた存在」であるという。一方でテクストの普遍的な価値を担保するよう努力しつつ、しかしもう一方では、スタンダールがラシーヌやシェイクスピアの衒学的な再現を試みる愚を批判したように、勇気を持ってテクストを翻訳者の文化/時代に適応させなければならない。
ご自身の『フェードル』訳と、既存の訳(伊吹、二宮、渡邊)を比較した一覧表は、この哲学を読み取ることが出来、分かりやすかった。岩切教授は、日本語の台詞として自然になるように、原典の韻文形式を再現せず、また日本人観客が一度聞いて分かるように、ギリシャ神話のあらすじなどの背景知識を訳文に組み込まれている。定冠詞で示される微妙なニュアンスは、副詞などで明確にされ、文語的言い回しも分かりやすい口語表現に置き換えられている。
最後に岩切教授は、17世紀演劇研究者ジョルジュ・フォレスチエや、ベルグソン、ドイツ現代演劇の演出家トーマス・オスターマイアーらの言説をひきつつ、演劇テクスト=戯曲をあくまで「演劇的に」とらえることの重要さを強調された。演劇テクストは、とりわけアカデミックな場においては、「作家研究」や、「(ニーチェ的)悲劇論」、「ポストドラマ演劇論」「パフォーマンスの美学」などの形而上的理論で語られることが多い。しかし戯曲の言葉とは、俳優が登場人物、物語を観客に伝えるために創造されたものであり、研究者は、その表現の手段としての性格を研究してゆかねばならないとし、講演を終えられた。
以上のように岩切教授の講演は、一言で言えば、「表現のための戯曲翻訳」、「表現を研究する行為としての演劇研究」にフォーカスを当てたものであった。
会場からはまず、岩切教授の豊富な現場経験に関して質問が来た。各上演での演出家とのコンセプト作りの実際、企画の経緯。俳優の身体性をどのように翻訳に盛り込んでいるのか、など。しかし最後には、講演の焦点である「表現のための戯曲翻訳」に話題が集まった。創造現場の状況に合わせて翻訳を行うと、原テクストの内容、文体を損なう側面があるが、それをどう「演劇学者」としては評価するか。翻訳とは、そもそも文学テクストの普遍性を伝えるアーカイブ的な行為なのか、時代/場所によってテクストをバージョンアップする創造的行為なのか。出版された翻訳と、上演台本の機能的相違はあるのか。「戯曲翻訳」のあり方を巡って、議論は白熱した。
最後に報告者の感想を書かせてもらえば、やはり岩切教授の、「表現者」として戯曲翻訳に向かう姿勢には心を打たれた。大学以来、詩の創作者としてはぐくまれてきた表現者としての嗅覚が、原テクストの表現構造、芸術的実際性にフォーカスをあてた希有な「演劇テクスト」としての翻訳を生み出させているのだと感得した。これからもその力で、日本のフランス演劇受容を押し広げて頂きたいと思う。
(田ノ口誠悟)