去る2018年7月28日、日仏演劇協会では、このほど白水社より出版された『新訳ベケット戯曲全集』第1巻(全4巻予定)の監修者である岡室美奈子教授を招き、翻訳の方針やその過程についてうかがう講演会を開催した。
もともと別役実研究から出発された岡室教授は、早稲田大学在学中に安堂信也のもとでベケット研究をはじめられ、これまでに『ベケット大全』(白水社)や『サミュエル・ベケット!―これからの批評』(水声社)などの編著があり、現在は早稲田大学文学学術院教授と早稲田大学坪内博士記念演劇博物館館長を兼任されている。近年は専門であるベケットだけでなく、テレビドラマをはじめとするサブカルチャーについても旺盛な執筆活動を行っている。
当日は、台風の接近にともない警報が発令されるなかにもかかわらず、熱心な聴講者が集まった。そして何より、以下に見ていくとおり、岡室教授のベケットに対する果敢な姿勢を垣間見ることができ、充実した内容の講演会となった。
岡室教授によれば、ベケットといえば日本では長らく、彼女の師でもある安堂信也と高橋康成の翻訳があり、我々は、彼らの翻訳によってベケット戯曲に対するイメージをある種固定化されてしまっている。したがって岡室教授の翻訳は、それに敬意を払いつつもいかにそこから自由になるかという挑戦であったという。
講演内容は大きく分けて、翻訳プロジェクト全体についての解説と、『ゴドーを待ちながら』の翻訳をめぐる試行錯誤についての2点であった。
まずはプロジェクトの概要、および翻訳の過程に関する話から講演は始まった。岡室教授は、若手ならびに中堅の研究者たちを中心に、ベケット・ライブなども企画してきた長島確氏らと研究チームを立ち上げ、議論を重ねつつ共同で翻訳にあたった。その対話による作業行程は、単に翻訳を各個人で進めるよりも、当然ながら膨大な時間を要することにもなったが、岡室教授にとっては新たな発見の連続であり、感動的な体験であったとも振り返られた。
ベケットは「ジャンル」に非常にこだわったため、巻号の構成としては網羅的収録を念頭に置きつつも、編年体ではなく、あくまでテクストの性格に従って分けた。
ここで大きな問題となったのが底本である。英仏のバイリンガル作家であったベケットは、フランス語で書いたテクストをみずから英語に翻訳をしていることなどから、複雑な事情を有している。安堂・高橋訳を含め、従来は、先行して書かれたフランス語版を優位とするのが通例であったが、最近では自身による翻訳である以上、英語版をいわゆる「改訂版」として捉える向きもあり、また、仏語版と英語版の異同からも二つは相互補完的である。その見地に立ち、底本は、現在の最新版であり、版を重ねるごとに加えられた本人による加筆修正が最も反映されているイギリスのFaber&Faber社の2009年~2010年に刊行された版を使用した。その意図は、ベケットの戯曲執筆時の思考の過程をより正確に落とし込むということであり、岡室教授はこの翻訳を通して、いわば「オリジナル」という概念の脱構築を行ったとも仰られた。
新訳の方針は、「脱・難解」であった。岡室教授によれば抽象的な表現を避け、リアルな身体感覚に根差した具体的な表現にし、多義語の訳の選択もより格調の低い方、より身体的な方、より性的な方をとる方針を掲げた。また、笑いの「ツボ」を押さえることにも重きをおき、そして注も最小限にすることで、演劇の現場での使いやすさに寄り添ったものにしたという。
もう一つの方針は、最新の研究成果を踏まえるということである。安堂・高橋訳以降に明らかになったこと、すなわちこのあと詳しく見る劇構造や台詞のメタ性などがわかるように訳出した。さらに従来の翻訳に見られるニュートラルな表現は避け、多義語は、その多義性を残しつつ、意味が伝わる訳語を充てた。そして特に、筆者にとって感動的だったのは、岡室教授が「解釈に踏み込むことを恐れず、ベケットと<現在>を意識した訳とする」と話されていたことである。岡室教授訳のベケット戯曲の「明快さ」は、裏を返せば、ベケット理解の単純化の危険性も同時にはらんでいるが、我々が生きる現代の世界にはベケット作品の上演が絶対に必要であるという岡室教授のきわめて明晰な意思によるものであったことが語られた。その演劇の現場を志向する姿勢については、第2部の『ゴドーを待ちながら』の翻訳と上演の試みについての話でより鮮明となった。
さて、『ゴドー』について具体的に語られた第2部である。
翻訳のきっかけは、2010年当時のゼミ生による『ゴドー』についてのレポートであったという。それは「『ゴドー』は絶望の劇なのか?」という問いのもと、第2幕を扱ったもので、そのレポートの結論は、ポゾーが盲目になり、ラッキーが話せなくなることは「死」に向かうという絶望への収斂ではなく、また、ラッキーとポゾーのあいだのロープに示される物理的な距離が徐々に短くなっていくことは、主従の関係による人間の従属状態を示唆するものでもなく、むしろ両者の親密な関係への変化を意味するのではないか、というポジティブな劇としての『ゴドー』像の提示だった。
さらに時期を同じくして、東日本大震災が起こり、その翌月に新国立劇場にて森新太郎演出による『ゴドー』が上演され、「震災とベケット」という主題を考えざるを得なくなる。森演出の舞台上には、死者に囲まれ、なにもかも洗い流された地球の表面に佇む、むきだしの生としてのウラジミールとエストラゴンがいた。ほかにも震災後の上演としては、劇団「かもめマシーン」による福島第一原発から20キロ地点で上演したものや、あるいは愛知トリエンナーレにおけるイリ・キリアンのベケットから着想された作品《East Shadow》があり、ベケットの戯曲は、スーザン・ソンタグの例を挙げるまでもなく、世界中の様々な戦地、被災地で上演されてきた。それというのも、ベケット自身の、終戦間際のサンロー赤十字病院にいたという不条理的なるものとの遭遇体験と無関係ではないだろう。
さて、岡室教授が早稲田大学演劇博物館館長に着任し、最初に行ったのが、2014年度春季企画展「サミュエル・ベケット―ドアはわからないくらいに開いている」であり、そこでは、ベケットの「ゴドーとは共生だよ」という言葉を手がかりに、「死者との共生」、「徹底的な喪失から生への反転」の思想という、いわば圧倒的な絶望的状況からの反転への願いを込めた。
そのうえで翻訳の話に戻れば、新訳の『ゴドー』が、現代という希望のない時代の若い人たちに是非上演してほしいという願望をこめたものであるため、岡室教授は、「現代の言葉で訳し現代との接点を意識する」、「テンポに留意し上演時間の短縮を目指す」、「会話のリズムとコンビネーションを大切に」、「具体的で身体的な訳を心掛ける」という方針を掲げた。補足すれば、ダブリンの演劇祭で鑑賞した上演のコンビネーションのよさを意識しつつ、短い言葉でテンポがよくなるようにし、反復表現は、あえて同じ言葉にしてリズムが生まれるよう工夫した。人物造形として、「やる気まんまんのウラジミールとやる気のないエストラゴン」、という対比を意識しつつ差異化を図り、かつ両者とも明示されてはいないものの、老人であろうと想像されるが、老人らしい台詞にはせず、たとえばエストラゴンは、あくまで「かわいい」性格の持ち主として描き出したという。岡室教授によれば、なによりも「翻訳は賞味期限短く!」をスローガンに、冒頭の台詞を「何やってもダメ」とし、「ダメ」とカタカナにしたところに、この新訳の方向性を示したつもりだという。
以降、安堂・高橋訳と岡室訳を対照表の形で示し、その差異を明示しつつ、先に挙げた新訳の方針について、具体的な箇所を引用しながら説明された。特に鮮烈だったのは、ラッキーの長台詞に関する訳の指針であり、それはつまり、決してわけのわからない言葉の羅列なのではなく、いわばノリツッコミをいれつつも、逸れていく話題を軌道修正しようとする思考の運動が見える形で訳したという点であった。
またこのプロジェクトの独自のプロセスとして、翻訳と並行して、宮沢章夫演出による2回のリーディング公演(2017年)を実施し、そこでの成果も翻訳に反映させている。この公演によって、ベケットは、特にト書きがおもしろいことがよく分かったという。
質疑では、ウラジミールとエストラゴンの違いなど考えたこともなかったという驚きの声を皮切りに活発な意見交換がなされた。
特にラッキーの長台詞についてコメントが集まり、岡室教授によれば、『ゴドー』は1952年出版、1953年初演であり、そこには明確に戦争が影を落としているだろうという。会場からは、それは、絶望から「生」への反転の劇であるという先の見方とも結びつくのではないかという意見もあり、それを受け岡室教授は、別役実の震災直後の発言である「まだ徹底的に悲しむことが足りてない」という言葉を引いた。
なるほど、人間は科学技術的には発達しているが、精神的にはやせ衰え、疲弊していることが、この台詞には表れている。ラッキーは、知的なことをしゃべろうとしてそれができない。岡室教授は、この長台詞を読んでいると切なくなるという。加えて、長台詞にまつわるエピソードとして、ダブリンのパブでそらんじることができる初老の男性がいたことや、刑務所の慰問公演では大拍手がおこったことなどが紹介された。
もう一点話題となったのが、柄本佑・時生兄弟による『ゴドー』についてであった。会場からは、二人の若くて軽い、ゆるい身体による『ゴドー』は素晴らしく、そういった新しい『ゴドー』像の今後の展開に興味があるという意見がでた。岡室教授も、柄本兄弟の『ゴドー』はすぐれた上演だったと同意した上で、演出の柄本明はベケットを本能的なところで理解していると指摘した。
最後に岡室教授は、社会がベケットに追いついてきたという実感について述べられた。すなわち、1994年に相次いで上演された鴻上尚史や蜷川幸雄などの演出による『ゴドー』は、その本質がよくわからなかったが、2000年以降の佐藤信や串田和美の演出による上演を経たあと、ついに近年の柄本兄弟でようやく、いわば血肉化された『ゴドー』を見るに至り、その本質がいよいよ「分かる」ようになってきたのだという。そうして、今後のベケット上演の可能性を示唆し、質疑応答は締めくくられた。
岡室教授は、精緻な研究に裏付けられた、非常に果敢なベケットの読み直しの作業を、明快な言葉で解説された。そこから浮彫りになったのは、決して単なる研究対象としてのベケットではなく、上演を前提にした、現代を生きる我々の前に立ち上がるベケットである。日本のベケット翻訳の最前線に触れる、興奮に包まれた講演会となった。
(文責:岡村正太郎)